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2005.04.26 柴草玲ライブ 『春なの、』

●日時:4/26(火)
●場所:南堀江Knave

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彼女の楽曲を、たぶん相当聴いている。
たぶん、相当繰り返して聴いている、32歳のひとりの女として、彼女のライブに行った。
4月26日、南堀江。

彼女の楽曲は、ゆっくりと、しっとりと、滑らかで、一つの曲ごとに、私のなかにストーリーを紡ぎ出してくれる。それは、細かく言えば、その曲ごとに漂う色や匂いでありその曲に描かれた「私」や「彼女」や「あなた」の服装や髪の長さ、肌の状態や好きな果物までもがスケッチできるほど、豊かに、多彩に、聴くものの身体に、ふわりと染み込んでくる音楽である。

「音」という一次元から、立体的なシーンを感じるられるという醍醐味を得られるのはその楽曲の「力」であり「表現力」であり、それこそが音楽を聴く側にとっての最大の「魅力」だと私は思っている。

そんな柴草玲ワールドに乗っ取られていた私にとって、今回のライブが、彼女の楽曲の放つ「魅力」に、すっぽりと包まれ、身をおけた「時間」がそこにあったのは言う間でもないが、しかし、これまで想像もしなかった、柴草玲という「人」に面喰らった部分もあった。

レースのカーテンのような歌声と、陶器のような旋律ばかり先攻していたイメージとは全く異質に感じた「お茶目」な部分、である!それは、決してラインオーバーではなかったにせよ、柴草玲という「人」には皆無だと勝手に信じ切っていた一面でもあった。
・・・公園でノビルという野草を収穫している柴草玲。
・・・ペットショップの犬をウンチ君と名付ける柴草玲。
・・・高速道路の垂れ幕標語にケチを付ける柴草玲。
もちろん、それは、柴草玲という「人」ならではの視点と嗅覚があってこそ成立している、「事件」であることの運びは、ライブに行った人なら感じられたであろう「事実」なわけだが、はじめて彼女のライブにでかけた者にとってちょっとした衝撃であったことは、やはり隠さず発表しておきたい。
しかし、そういう一面が、今までの私の中の柴草玲という「人」のデータに重なることでより一層、彼女の楽曲の宇宙が深い層となり、新しい存在感となったがゆえに、終盤の『煉瓦のかぞえ唄』『前山にて』がぐいぐい迫ってきたとも言えるかもしれないが。

ひとつの空間で、一種の混乱を通過し、さらなる充実した平穏に満たされた矢先に、ライブは終了した。
柴草玲の、そのライブは、彼女の一つひとつの楽曲がそうであるように私にとって、かなりドラマティックな時間であったと告白したい。

もう一つ、先述とは逆に、彼女が纏っていたイメージをそのまま確信した部分もまた、このライブによって私の中のデータを上書きした。
柴草玲というその「人」は、紛れもなく、音楽という手段を使った強烈な表現者だったということである。

『会話』という曲を歌う前に「私のやっているのは音楽ですから」と、彼女は繰り返した。この曲にまつわるエピソードと、この曲を発表し、披露することで巻き起こったにわかなセンセーションに対峙したこの言葉。この場面で「私のやっているのは音楽ですから」というワードを口にした彼女にこそ、表現者としての強さと信念を、強烈に見い出してしまおうとするのは受け手のエゴなのかもしれないが、それは自由に解釈できるという立場の特権と思って、私は解釈し、確信している。

柴草玲は、グランドピアノを自在に操る、表現者だと。

作曲家としてではなく表現者として立ち位置が明らかになった柴草玲のこの言葉の「正確さ」。それは、それぞれの曲にはもちろんライブのタイトルとなった『春なの、』にも通じる柴草玲の世界であり、彼女の最大の魅力でもある。

彼女の選ぶ「言葉」。
ピアノに寄り添う「言葉」。
空気を振るわす「言葉」。
柴草玲が紡ぐ「音」と「言葉」が、強く柔らかく漂う時間に出会えるのならまた、次回、ライブに出かけてみたいと思うのだ。

(kyoko yamagata)
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--セットリスト--
01.ローランド・カークが聴こえる
02.ヒヨドリが見てた
03.アクアリウム
04.微粒子
05.オキナワソバヤのネエサンへ
06.桜島
07.(小唄1,2曲)
08.蒼い影
09.遺伝子
10.煉瓦のかぞえ唄
11.国立
12.会話
13.靴の詩

En1.祭りばやし
En2.前山にて